公開:2020/07/26


原 始 細 胞


知花敏彦 沖縄講演 1988年6月1日

<目次>


1.私とキリストとの会話


昨夜、私が明想を終えましたのが11時頃でした。まだ寝るには早く、もう少し起きていようと思っていましたところ、「寝なさい」という啓示が下(お)りました。(寝るには少し早すぎるが・・・)という自我の気持ちがありましたが、啓示の通り私は素直に寝ることにしました。床に横になると同時に『原始細胞』についての教えをいただいたのです。そのことをお話したいと思います。


その原始細胞の教えは、非常に大事なものであることがわかりました。そして、その原始細胞が「真の自分である」ということがわかったのです。


その細胞は今の化学的な顕微鏡では、見えるか見えないくらいの小さなものですが、しかし、その原始細胞が原始キリスト、即ち、神の細胞であるのです。その細胞は命を持っていて、神の全ての属性を持っているものなのです。


この原始細胞は神と共にあった、即ち、神の細胞であった、ということです。神の属性を持っている、神の記憶の全てを持っている、神の智恵と力を持っているものです。これが私達の中心核となっているのです。


この原始細胞は神そのものです。神の力、神の記憶、神の愛、神の智恵、その全てを完備(そな)えたものです。これが『内在のキリスト』で、あなた方の言っている『神我』というものです。


この一つの原始細胞が、全体の肉体細胞を造り出し、支配し、管理しています。これがあなた方の内なる創造原理、即ち、創造の力、創造の意識というものです。これを『生命』というのです。その原始細胞・原始キリストが、あなた方ご自身であるのです。


私が寝ている間、意識の世界の中で見せていただいたのは、造られた自分と、造った原始細胞との会話だったのです。それがキリストとの会話であり、私がそのキリストと面と向き合って話し合いをしていたのです。


その中で教えていただいたのは、これは神の細胞、創造神の現れだということです。私達は造られたものであり、造り主は我が中におられるのです。その造り主が我が中におられるということは、この原始細胞のことを言っているのです。


始めも終わりもない神と共におった自分。そして、その神の属性を持っているものが、その全てを持っているものが、皆さん方の中心にある『中心核』というものです。これが分裂して、私達の細胞体を創造しているのです。


これには始めも終わりもありません。これが久遠常在の不死不滅の自分です。本来人間というものは、この原始細胞、即ち、原始キリストが自分自身であるのですが、この形を、この肉体・形体そのものを、自分自身だと思うようになっただけのことです。だから、皆さん方を表現しているのも、生かしているのも、全てこの原始細胞です。この原始細胞が生きているのです。このことを、今の化学や医学はDNA、即ち、遺伝子と言っているのです。


アメーバーから人間が出来たという説があります。「人間は最初アメーバーであった。それが分裂に分裂を重ねて、そのようにして人間が誕生していったのである」と、そのように人間の始まりはアメーバー説で説かれているものと、またある神学では「別の惑星からこの世に誕生してきたものである」と、その二通りの説があります。


それはどちらも正しいのです。アメーバー説も正しく、別の惑星から下りてきた人種の説も正しく、その二つの説があるのですが、勿論、別の惑星から下(お)りてきた彼等も原始細胞なのです。彼等も最初はアメーバーから、即ち、原始細胞から始まっているのです。そのことを、私は意識の世界の中で、重々に見せていただいたのです。


この原始細胞は極(ごく)小さなものですが、これが宇宙生命と一体であるのです。大いなる生命です。その神の生命と一体であって、また神としての一部でもあるのです。その神と一体ということは、「原始細胞は神としての一体であり、また神としての全体でもある」ということです。


人間を見れば無数の細胞体ですが、魂の中には原始細胞があります。無数の細胞はこの原始細胞が生み出したものです。それは常に生み出しているものです。常に創造しているものです。


原始細胞がそれらの細胞を創造しなければ、私達は細胞を持つことが出来ません。その生み出した細胞が老化現象を起こしても、常に創造してやまないのがこの原始細胞です。常に分裂を起こしているということです。


だから、私達は極端に外部からの障害を起こさせない限り、あるいは、心の持ち方によっての恐怖感、怒り、憎しみ、嫉妬とか、そういうものの化学変化を起こさない限り、私達は常に健康で在り続けるということです。


健全なる方が、健全なる細胞をお造りになられました。それは私達の肉体細胞の全部を、健全なものとしてお造りになったということです。それをこの原始細胞が造るのです。即ち、内なるキリストが造るのです。これを「内なる神」、即ち「内在神」と言います。この内なる原始細胞が、この全ての細胞を造り、全てを管理しているのです。


「生命は一切の管理者である」と言って、この原始細胞を「生命」と呼んでいます。あるいは「霊」と呼んでいます。それを『御霊』(みたま)と言っているのです。


私達の心が分裂(不調和)を起こすと、肉体内で化学変化を起こします。このことを世の中では「病気」と言っているのですが、心の調和が整っていれば、全体の調和が整っており、病気というものは起こらないのです。私達のその無知が、自分を全ての破壊に招いているのです。


真実の自分という真我(神我)は、常に完全無欠であって、これが完全無欠の自分であって、智恵の自分であって、力の自分であって、これが全ての原点となるのです。あなた方は宇宙原理です。その細胞そのものが宇宙原理であるからです。宇宙は智恵であり、力であり、愛であり、全て神の属性を持っています。


その次に、「生命原理」について教えていただいたことは、鉱物・植物・動物・人間の生命原理は、みな一つの同じものだということでした。「いたるものの中にわたしがいる」と、即ち「いたるものの中に、このわたしという原始細胞がいる」ということです。ですから、いたるものに核がある、智恵がある、力があるということです。


鉱物・植物・動物には逆念というものがありません。それは、自由意志というものが与えられていないからです。鉱物・植物・動物は、この原始細胞によっての表現が限定されていて、有限化された範囲内での表現であって、無限の表現は不可能であるからです。


しかし、人間の原始細胞には一切のものを可能とする、その神の表現が人間だけに与えられているのです。ですが、そこに自由意志が与えられていますから、人間は虫けらのようなものになることも出来るし、神のようになることも出来るのです。


自由意志とは「意識」のことです。意識したものは何でも造り出すという意味です。死を意識すれば死を招くし、生(せい)を意識すれば生(せい)なるものとなります。私達には自由意志を持たされていますから、何でも造り出すという、創造の力を持っているのです。


私達の一番大事なことは、その意識の問題となってきます。意識が低い方に向けば、低い表現によって低いものを造ってしまいます。意識が高い方に向けば、高いものを創造するということが分かるのです。「あなた方は意識した通りのものであって、それ以上のものでもなく、それ以下のものでもない」というのはその意味です。だから、あなた方は意識した通りのものを表現するのです。「意識は実現の母」と言い、意識は創造する力となり、具現する原因となるのです。


何故、人間は死ぬものとなったのでしょうか。それは「人間は死ぬものだと思ったから、死ぬものになったのだ」ということです。「あなた方はそれを望んだのではないか」と、「望んだものは何でも造り出され、与えられるものなのだ」ということです。


人間はその生命原理を知らないのです。その知らないという人間の無知が、周囲のものを、どんどん破壊してしまうのです。久遠に死なないものまでも殺してしまうというような破壊行為を、「今、あなた方という人類はそれを為しているのではないか」と、私の原始細胞が、キリストが、この私にそのことを訴えたのです。


その原始細胞が、あなた方の真我(神我)です。一切の神の属性を秘めた、智恵と力と愛を秘めたもの、それがあなた方の真我(神我)というものです。この真我(神我)には、このキリストには、始めもなく終わりもありません。例えこの肉体が朽ち果てようとても、その原始細胞には終わりはないのです。


これが、今、あなた方の知ろうとしている『我』、即ち、本物の自分です。


あなた方は、その原始細胞である原始キリストが真の我、即ち、神我であって、この見える肉体は、原始細胞によって表現されている「偽の我」であるのです。「肉体は原始細胞の表現体にしか過ぎない」ということです。


あなた方のその原始細胞が『主なる神』であり、あなた自身であるということです。だから、私達は造られたものであると同時に、造り主であるということが言えるのです。あなた方の中に原始細胞、即ち、原始キリストという神の属性を秘めた創造能力、その創造の力と、智恵と、愛と、天と地の全てを造り給う、その細胞があるのです。


これが『全智全能の神』です。だから、あなた方一人びとりには、必ず全智全能の神の属性を秘めた、一つの細胞が存在するということです。その一つの細胞が全体を創造したのです。そして、全体を管理しているのです。


今ならDNA、即ち、遺伝子のことも理解出来ると思います。しかし、私達が肉の父親や母親からの遺伝子を持っているという、そのような今までの外観で捉えた学説は、非常な間違いになってくるのです。


私達は父なる神の遺伝子を、偉大な智恵と力と愛の遺伝子を持っているのです。しかし、いつの間にか外観から捉(とら)える遺伝子を、私達はその学説を記憶させられるように、教え込まれるようになってしまったのです。


あなた方の親というものは、肉なる親があなたの親ではありません。父なる神が親ですから、あなたが神の属性を、神の遺伝子を持っているということです。肉の親が親なら肉の遺伝子を持ちますが、あなた方一人びとりは神の遺伝子を持っているのです。


この神の遺伝子を持った細胞が原始細胞です。造り主である神、創造主である神、その神の細胞が私達の細胞となっているのです。だから「人間一人びとりは神の細胞のようなものである」と言われているのです。


今まで話してきたこと、それは神の種子のことです。その種があなた方の中に植えられているのです。肉という闇の中に、原始細胞という種が植えられているのです。即ち、聖書に出てくるパン種(イースト菌)に、これに気付いて始めて「あなた方はそのパン種のようなものになるであろう」即ち「パン種そのものとなるであろう」、「キリストそのものとなるであろう」と言われているのはこの意味のことです。


これがあなた方のキリストです。神の種子が、即ち、神の種が植えられている。これがあなた方の一つの細胞、その原始細胞がキリストとして存在しているのです。それがあなたです。それ以外に、あなたというあなたは何処を捜(さが)してもないのです。


だから、真我(神我)のみがあなたであって、その外なる見えるあなたは、真我(神我)なる原始細胞によって表現されている自分、即ち、表現の自分なのです。


「我が主なる神」という、あなた方の中にある原始細胞、原始キリスト、即ち、真我(神我)は、全ての神の属性を秘めている魂の中に留まっています。


それに気付いて、それをはっきりと「そのキリストが我だった」と、「我が実相はキリストだった」と、あなた方がそれに意識を向けるようになりますと、強烈にその原始キリストは、私達を通して意識し始めるようになります。それと造られた自分とが融合し、そこに委ねるようになりますと、私達は神のキリストとなるのです。内なるキリストが自分自身に気付き、受け入れましたので、食しましたので、それが表現体となって外に顕現されて来るのです。


そうなりますと、非常に素晴らしい現象が顕(あらわ)れて来ます。今までは、周囲のものの外念・外観によって、粗雑な低分子となっていた細胞が、このキリストが働くようになりますと、その細胞一粒一粒が神を記憶するもの、即ち、原始細胞のように変化してゆくのです。


今までの細胞の粗雑な記憶ではなくて、外観を受けるようなものではなくて、中心核である原始細胞という、その記憶を持つ細胞体となってゆくのです。それがあなた方の変性・変容というものです。


それでは、どのようにしてこの細胞一粒一粒が、変性・変容を遂げることが出来るかということは、常にあなた方が沈黙を守ることにあるのです。外なる表面意識の沈黙を守って、常にその内在なる本来の自分、即ち、原始細胞を原始キリストを、真我(神我)を意識することによって、そこに委ねることによって、内なるものが活発化して、外なるものまでが全部内なるもののようになるのです。


「外なるものは内なるもののようになり、内なるものは外なるもののようになる」という意味は、そのことを言っているのです。しかし、これにはかなりの忍耐と努力が要ります。沈黙が守れない人には不可能です。


その外なるものの五官の感化という、表面意識が活発であるときは、この原始細胞は沈黙を守っているのです。五官の感化に対して、原始細胞は邪魔をいたしません。何故ならば、原始細胞は人の自由意志を犯さないからです。ですから、私達が外なるものを望んで、外なるものに活発化を与えている間は、この原始細胞は、即ち、原始キリストは沈黙を守っているのです。


私達が内なるものを望んで、外なるものに沈黙を守らせることによって、内なるキリストは活発化してゆくのです。


それには、必ず沈黙を守るという原則があります。外なる五官の感化というものを沈黙させる、それは明想を通してのみ可能です。だから、キリスト教には「黙想」というものがあり、仏教には「明想」というものがあるのです。


いつか人間は、真の神「キリスト誕生」のためには、必ず明想が必要となります。明想の出来ない人は、決してこのキリスト誕生を望むことは出来ません。「復活」は不可能です。変性・変容を遂げることも不可能だということです。


あなた方が常にその自分の中心核である、真の自分自身である、実相の自分である原始細胞、即ち、内在のキリスト・神我を意識すれば、意識するほど活発化して来ます。それが「四六時中、神を想(おも)いなさい」という意味です。


四六時中神を意識すれば、あなた方は神に似ることが出来ます。四六時中表現結果を見れば、あなた方は外なる表現結果に似ることになります。何故ならば、このキリストは悪いことにも善いことにも、創造原理の力として、あなたの望むもの全てを叶えてくれるものであるからです。


ですが、外なるものが悪いからと言って、あなた方も一概には悪いというのではありません。何故ならば、この外なるものがどんなに表現しようが、その表現している力には、何にも影響を及ぼさないからです。


この原始細胞はエネルギーです。生命です。力です。これを表現している人が、病人であろうが、邪悪な人であろうが、表現している力には何の影響も及ぼさないからです。このことは、映画の俳優や女優が病気で死ぬ役や、どのような悪役をやっても、本来の彼等には何の影響も及ぼさないことと同じです。芝居をすることの表現に過ぎないからです。あなた方も、今、この世でやっていることは表現ですから、みんな映画の俳優や女優のようなものです。


しかし、その表現の背後の力が真のあなたであるのに、人間という表現体の姿・形を見て、それを自分だと思っているのです。これは大きな間違いです。あなた方はその表現体、肉体があなたではなくて、表現している力が、命が、久遠なるものが分からないから、自分の本質が如何に偉大なものであるかが分からないのです。


この原始細胞は普遍的です。全体の神が分離したことのない細胞です。この細胞は、今、私達の肉体の中におりながらも、宇宙霊、即ち、宇宙生命と一体です。だから、普遍的存在だというのです。全一体としての存在だというのです。一切分離はしていないのです。また、分離して生きられるものではありません。


この細胞が、外に分離して生きられないことと同じように、私達の細胞は、神の原始細胞から離れては、決して生きられる存在ではありません。


この私(知花)の細胞が、外に分離して生きておれないことと同じです。私達の原始細胞という中心核である細胞も、決して神の細胞から分離して生きられるものではありません。全一体としての細胞であって、あなた方の細胞も、私の細胞も、同一の原始細胞であり、同一の生命であるのです。


だから、私達個人のためにその原始細胞があるかということは、これは愚かな話です。個人別にあるのではなく、全部にあるのです。同一にあるということ、平等にあるということです。ただ、これに気付くか、気付かないか、それだけのものです。


あなた方がこのことを把握すれば、あなた方はキリストを知った者となります。「イエスは常にキリストと話をしておられた」、「イエスの祈りは神の息であった」という意味がこのことです。それがあなた方の中で息をしているのです。この原始細胞が息をしているのであって、あなたの肉体が息をしているのではありません。


この原始細胞が力です。あなた方が動く、制動する原動力です。あなた方から原始細胞が抜けたら、魂が抜けたといって動かなくなるのです。動いている原動力、表現力、全てこの原始細胞が命であり一切の管理者です。その細胞があなた方の魂の中にある、それが内在のキリスト・神我というものです。


これをあなた方が認めなければ、あなた方は死人です。表現だけに生きていて、何故生きているのか、命が何なのか、命は何処から来るのかと、それが分からないと迷い人となる、即ち、迷える霊となるのです。これを「迷える小羊」というのです。この細胞があなた方の羊飼い、即ち、あなた方を養っている父なる神ご自身なのです。


この原始細胞は父なる神です。そして、全智全能の神です。その原始細胞の精子と卵子が結合し、分裂作用を起こし、人体を創造・構成するのです。それが完全に熟したとき、十カ月十日で出産という、この地上界への誕生となるのです。


生きて息をしているのも、業(わざ)を為しているのも、全部この原始細胞です。ですから、イエス様は『わたし自らは無(む)なり、わたしの中に留まり給う父なる神が御業(みわざ)を為し給うのである』と言われたのです。


この原子細胞が、父なる神が、あなたの中で御業(みわざ)を為しているのです。これがあなた方の内在神、即ち、内在の神と言われているものです。これを真我(神我)と言います。これが本来のあなた方です。


神は第一原因者です。神は全ての原因、全ての親です。一切の親です。創造神そのものが父なる神です。一切の造り主、一切の生命そのものが父なる神です。だから、イエス様は「この世で何者も父と呼んではならぬ」と言われたのです。


「一切の御業(みわざ)は神にあり」、「一切の生命(いのち)は神にあり」、これがあなた方の中に植え付けられた神の種子です。それがあなた方に原始細胞として、目には見えないその一つの細胞が、私達の肉体機能の全てを管理しているのです。その御業を為しているのが原始細胞です。あなた方の中心核に宿り給う原始細胞です。即ち、キリストが、私達の肉体を十分に管理して下さっているのです。


私達に智恵を起こさせたり、力を起こさせているのが、その原始細胞です。それが抜けたら、あなたは智恵も力も息も何もありません。あなたに働くものがいなくなったからです。だから「神は一切の下僕(しもべ)である」と、一切のものを造って、一切のものを働かしているが神であるということが、今のあなた方なら容易に理解出来るのではないでしょうか。「人間一人びとりがみんな神の子である」という意味も、今ならお分かりだと思います。


神という原始細胞が、あなた方の中になかったとするならば、あなた方の存在はありません。だから「神のみが生きて神のみが働き給う」ということになるのです。このことは、外に生きている外観人間にとっては、これを理解することはとても不可能です。「わたしの言葉に蹟(つま)ずくであろう」と、イエス様が言われたのもその意味です。


この真理を、この霊的なものを、内観する人のみが可能です。外という外観だけに生きている人は無知(むち)・盲目(めくら)ですからこの内なる真理は一切理解することは出来ません。


そのような外観人間は、もう完全に表現の操り人形(あやつりにんぎょう)です。操られているものだけに生きて、操っている本源というものを知らないのです。そのことは、結果だけに生きて原因を知っていないということです。なぜ自分が生きているのか、なぜ自分が働くのか、それさえも分からないのです。ただ生きているから生きている、ただ働いているから働く、それはロボット的に生きていて、ロボット的になってしまって、本来の自分には死んでしまっているのです。


だから、私(知花)は「この世の中で生きている人間をまだ見たことがない」といつも言っているのはこのことです。本来の自分に死んでいる人は、自分の命が何処から来て、どのような作用を起こしているかが分かっていないのです。


この細胞さえ自覚出来れば、私達は永遠の若さを保つことが出来ます。もう二度と年を取ることはありません。そして、死ぬこともありません。即ち「不老不死」というものです。年を取ることなく、自分の生きたい分だけ生きることが出来ます。何故ならば、原始細胞が主なるものですから、自分を生かすも殺すもこの原始細胞ですから、自分がそのものになったら、自分の命は自分が管理するからです。年を取るとか、死を招くとか、そのような無知な思考はしないはずです。


これが全ての創造主ですから、あなたはこの細胞を通し、意識して、あなたは自分の新陳代謝を行えばよいのです。『わたしはあなたの原始細胞に充(み)ち満(み)ちて、宇宙生命に充ち満ちて、この細胞一粒一粒があなたの生命に充ち満ちている』という意識を起こせばよいのです。

そのとき、宇宙生命があなたに充ち満ちて、あなたの細胞一粒一粒に、偉大な生命が充ち満ちることになります。


─── 自分が何であるかが分からない。この細胞一粒一粒に生命があることさえも分からない。生きていることさえ分からない。ただ生きているから生きている。───


これが世の無知というものです。神の目から見れば、その無知な人間のだらしのない生き方が歯がゆくてたまらないのです。


あなた方がこの世を去ったとき、必ずそれを見せられます。自分はこんな無知な生き方であったのかと、こんなだらしのない生き方であったのかと、きっとあなたは歯ぎしりをするでしょう。それを見せられて悔しくて悔しくて仕方がないのです。私達がこの世にいるときは、無知なだらしのない生き方が当り前だと思っているのです。何も知らないがゆえにです。自分というものが分からないがゆえにです。


あなた方が、この原始細胞を完全に知ったとき、あなた方は『我を知った』ということになるのです。我を知った、自分を知った、自分は始めから神と共に在(あ)って、原始細胞であって、キリストであったということに気付き、それを表現しなくてはならない、顕(あら)わさなくてはならない、日常生活で活用しなくてはならないのです。


もし、あなたが、このことを学んで観念的に知ったとしても、これを本当にあなたのものとして、日常生活で活(いか)さなかったら、あなたはそれを知ったことにはなりません。


現に、あなたは原始キリストと共に、原始キリストと一体となって生きているのです。そのキリストを表現しなかったならば、あなたはキリストに死んでいるのです。自分が何であるかを知っていないからです。


「神を知る前に自分自身を知れ、自分を知る者は神を知るであろう」と。これは全智全能の神の属性で、全ての一切の智恵と力と、一切の生命の管理者ですから、そのとき始めて自分を知った、即ち「自分を知った者は神を知ったのである」とイエス様は言われたのです。それは「わたしを観た者は神を観た者である」という意味です。あなたが自分自身を観たら、それは神を、即ち、キリストを観たことになるのです。そのことを「見神(けんしん)」と言います。


私が昨夜、その見神、即ち、自分のキリストを観ることが出来たのです。そして、私はそのキリストより、現実にご指導を受けたのです。その神の智恵が、自分自身の中にあったということです。そのキリストは、私から一度も離れたことはなかったということです。

だから、私が今まで知らなかった神秘の部分を、今、こうしてあなた方の前でお話が出来るのです。


私達は造られたものであると同時に造り主です。造り主と造られたものは一体です。必ず造られたものの中には造り主はおります。それは核として、それを生かしている力と智恵があるのです。だから、神と人間は一体なのです。


イエス様は何と言われましたか。「神はあなたの手や足よりも、もっと身近におられるのである」と、そして「外に神を求めてはならない」と教えられたのです。


お釈迦様はどうでしょうか。「仏を憶念(おくねん)しなさい。あなた自身の中に仏はおられるのである」と、そして「それを内観(ないかん)しなさい。内省(ないせい)しなさい」と教えられたのです。


神を外に求めてはいけないのです。神はあなたの手よりも足よりも身近におられるのです。

これがあなた方の原始細胞、即ち、原始キリスト、即ち、創造神です。そのことを、イエス様やお釈迦様が教えられたのに、何故、今の宗教というものは、外に神を求めさせるようになったのでしょうか。


「神の国は汝の内にあり、外に神を求むるなかれ」と、イエス様は厳しく言われたはずなのに、何故、宗教は外に神を求めさせるのでしょうか。キリスト教しかり、仏教しかり、その指導者達が神を知らぬがゆえに、彼等は推理で神を造り出しているからです。


神は人間が造るものではなくて、神が人間を造るのです。しかし、今の世の愚かさは、人間の無知の段階まで神を引き下げて、推理して、手造りの神を奉って拝むようになり、そのような偶像崇拝をするようになってしまったのです。


『人間は生ける神の宮なり、仏の宮なり』であるように、「神は自らが造り給うたもののみに留まり給い、人の手もて造られたものの中には留まり給わず」ということを、ここではっきりと銘記することです。