公開:2020/07/26


真理の追究・自己追究

<目次>


2. 真の求道者


学び始めて、理解できたことを改めてまとめると、以下のようになります。


1.誰にでも永遠の完全細胞がハートセンターに存在している。

2.今までの考え方は間違いだと気づき、船長を変えることによって変性変容が起こり肉体細胞は原始細胞のように完全となる。

3.奉仕の明想、全体のための明想を通して光を放つことで地球を癒し、全てを改善させることが現実的に可能である。

4.真実を知ることによって、全ての艱難辛苦、生老病死という四苦を完全に克服することができる。

5.真理の追究は「明想」と「実践」をバランス良く行うことで、神に対する理解、霊的理解が高まり、実感も深まる。

6.自分のやる気次第で霊的指導が強化され、素晴らしい霊的鍛錬が与えられる。


「実践」という話になりますと、その人にとって今体験する必要のある仕事が「神の仕事」として与えられます。大抵は人が嫌がる仕事です。あるいは苦手な仕事。表舞台ではなく、裏舞台。面白い仕事ではなくつまらない仕事。大変な仕事。一方、やりがいのある仕事でもあります。それは本人がどう捉えるかによって変わってきます。そういう仕事です。従って、「実践する」と言っても、初めから上手くはできません。途中で、「何で俺がこんなことをしなきゃいけないんだ」という自我の想いが必ず出て来ます。


だんだんと作業するのが嫌になるので、「これではいけない」と言って明想をして神を呼びます。「我神なり・・・」すると何とか自我の想いが薄れて続けることができます。しかしまたすぐに嫌になります。つらくなります。また明想します。そのプロセスが何回も何回も続きます。外から見ると馬鹿みたいに見えるでしょう。正に自分にしかわからない、自分との戦いです。


しかし、このプロセスによって「神を想う」という基本的な力が養われます。神を想わないと苦しくなるという経験をさせられます。神を想うと楽になる。この経験が後の学びに大きな影響を与えることになります。逆に言えばこの経験がないと「神を想う力」が弱すぎて霊的成長はなかなか望めないと思います。


途中、途中で「これでいいのか!」と思うことが多々ありましたが、それでも頑張って続けて行く内に、「これは正に神が行っている仕事ではないのか」と気づきました。誰にもわからないけれども、いつも見えない裏方の仕事を黙々と文句も言わずに実践しているのが神なんだと。24時間四六時中、全ての生命活動を裏から支え、力を与えて制御している。しかも「俺がやった、私がやった」などと言ったことはない。謙虚に黙々と仕事をこなしているだけ。「神として生きるというのはそういうことか!」


表は人間という形、裏は神という力。表裏一体。父なる神と私は一体。今、自分が行っていることは、非常に重要な学びであると強く感じました。「真理を知る前に、真の求道者にならないとダメだ」と強く思いました。そして「真理の追究は生半可ではできない」と覚悟を決めました。


 

2−1 生命エネルギーの実感


明想と実践を「ヒーヒー」言いながら、それなりに一生懸命やっている内に、ハートに感じるものが生まれて来ました。「何かがある!」そして、それがだんだんとはっきりしたものになって来ます。


特に顕著だったのは、やはり自分のためではなく、他人様のために身を粉にして行動したり、全体のために仕事をした直後にハートセンターから何やらエネルギーを感じるようになるんですね。まるで、「良くやったー」と内から褒めれているような感覚です。「あれー・・・何だこの感覚は・・・」非常に気持ちが良い感覚が内から現れて来ました。


そんなことが何回か続くうちに、あるときに、「あー、生命エネルギーを吸った!」というはっきりとしたものが現れました。正にハートから直接生命エネルギーを吸収している感覚です。それ以来、何を食べても、何を飲んでも、何も口にしなくても、生命エネルギーの味がするようになりました。


それは、丹田呼吸で得たエネルギーの感覚とは全く違い、新鮮で純粋無垢のエネルギーに感じ、甘いんです。あるいは甘酸っぱい。美味しい。いつもハートからのど元にかけて美味しいものがあるんですね。何とも言えない至福感に包まれました。「これが神の実感か・・・」ほんのチョットだけの実感なのでしょうが、それでもかつて経験したことのない素晴らしいものでした。


「三度の飯よりも明想を好きになりなさい」というのも、この実感があって初めて「なるほど」と理解ができます。生命エネルギーの直接吸収、宇宙エネルギーの直接吸収の方が外からの食べ物よりも美味しい。そして、三度の飯も今まで以上に美味しく食べられるようになるんですね。神と一体になることが何と素晴らしいことなのか。


そして、この生命エネルギーは魂の奥底から湧いて来るので、魂が喜んでいるのがわかります。「愛の泉、光の泉、生命エネルギーの泉が、我が内からコンコンと湧いて来るんです」「私から飲む水は永遠に乾かない」と先生方がよく言う意味が深く理解できました。先生方はこれの何十倍、何百倍かわかりませんが、とにかく比べものにならない程すごいものを実感しているのだと推測します。


正に『原始細胞』に書いてある通りでした。24時間四六時中、これを感じてさえいれば、正に幸せそのものでいられるぞと。そうなると、この世で何かをして幸せになる必要がなくなります。又は、この世で何かをしなければならないということも一切なくなります。


それ以来、毎日がより楽しく、明想もより楽しくなりました。存在しているだけで至福感に包まれるようになります。やるべきことは、ただ一つ、真理の実践のみという心境になります。真理を世に広めたいという思いだけになります。


 

2−2 本物の先生


但し、心にネガティブな想いが現れると、その実感は瞬時になくなります。怒りや嫉妬・妬み・心配・不安・恐怖が現れると、その素晴らしい実感が瞬時になくなってしまうんです。「あれーっ!」


そうすると残りは虚しさや苦しみだけになります。素晴らしい実感を知っているだけに、その反動でなくなったときの虚しさは大変なものです。何故、なくなったのかと疑問に思います。想念を誤るとこうなるのだと。内なる神が教えてくれるんですね。ああ、だから「私を先生と呼んではならぬ」なのか。「本物の先生は我が内にあり」なのか。本物の教師は内なる神でした。


その実感がなくならないようにと、心のコントロールが今まで以上に必要になります。今まで思いたい放題、言いたい放題、やりたい放題で野放し状態だった心のコントロールが非常に重要です。神にあらざるもの、神にふさわしくないものを心から徹底的に排除する訓練です。


神を意識する訓練、神として生きるという訓練をすればするほど、その生命エネルギーの実感はどんどん精妙なものに変化していきます。ミクロ化されるようで、どんどんきめ細かく素晴らしいものに進化していきます。そして肉体はどんどん霊化、光化されます。これが「変性変容の法則」です。我神なりと意識が変われば、肉体が変容します。これで終わりということはなく、無限に進化して行くのだと思います。この「変性変容」については後述しますが、真理の追究のプロセスにおける中心的位置づけになると思います。


この生命エネルギーが魂を癒し、精神を癒し、感情を癒し、肉体細胞を癒します。更にそのエネルギーの強さに応じて世の中を癒します。そして、繰り返しますが、神を意識していないとこの実感はありません。特に自分の心が乱れているときは全くなくなってしまうのです。そして取り戻すのに大変な苦労をします。落ちるのは一瞬ですが、上るのは非常に時間がかかります。


24時間四六時中この実感があれば良いのに、現実はチョットだけ。しかも、神を思うことを少しでも怠れば全く何もなくなってしまう。更に、イライラしたりすると以前よりも苦しく感じてしまう。「あー、厳しくて苦しいなあ・・・」


 

2−3 自力本願と他力本願


知花先生は、「この道は自力本願ですよ。他力は全くありません」と何度も強調していました。実際に実行してみると全くその通りで、学べば学ぶほど、自力でないと登れなくなります。外から助けてもらってもそのときは良いですが、自分の力が養われることがないために、次のステージになかなか上がれません。先生方の望みは「早く真理を理解して、この真理を世に広めてほしい」ということなので、「助けてもらっていてはダメだ」と真剣に思いました。


従って、私の場合は、先生について回るのではなくて、講話を聞いた後は、自分の住んでいる地域で自分なりに頑張って来ました。この道に入るきっかけは人により千差万別だと思いますが、学びを続けて行く中で次第に「この狂った世の中を変えたい」という純粋な動機、目的に変わって行くのが自然だと思っています。この純粋な動機、目的こそが霊的指導を強化し、霊的理解を高め、霊的成長を促進する原動力となります。


闇の中にいて 闇に染まることのない自分

悪の中にいて 悪の影響を受けることのない自分

迷いの中にいて 迷うことのない自分

無知の中にいて 無知に妥協することのない自分


24時間四六時中

常に我神なりとして

この世の闇を照らす光として

真実を生きる者となりなさい


この言葉をよりどころとして、一人で追究するという自力本願の姿勢が「真の求道者」を育てるのだと考えます。上江洲先生がよく言われる「意志と勇気と忍耐と努力」この4つの力を養うには自力本願しかありません。


ヒーリングを当たり前に受けるという意識はなるべく持たない方がいいですね。どうしても先生に頼る気持ちが生まれます。苦しくても自分の中に実在する生命エネルギーを自分の意志で呼び起こし、内なる神に頼る方がいいと思います。その結果、それが経験となって意志力や忍耐力が自然に強化されます。私もヒーリングを受けるのは質問があるときだけにとどめて来ました。


何十年と真理を学んでいても実感がないという方がいます。それも自力で原因を見つけて、自力で解決して行こうとすれば、必ず内から答えが見つかると思います。『原始細胞』からわかることは、自我をしっかりと守りながら、真我を得たいというのは不可能だということです。自我を捨てる勇気があるかどうか。自我に対する執着を捨てようと決心できるかどうか。船長を変えようと思っているか。本当に自分を変えたいと思っているか。これにつきます。多くの方はここでつまづいているような気がします。


先生方の説法に「古い革袋に新しいワインを入れることはできない。新しい革袋を用意せよ」「一度に二人の主人はもてない」「今までの自分は大事に取っておいて、神のエネルギーも欲しいというのは欲張りです」「良いとこ取りは不可能」とあります。非常に厳しい言葉です。


以下のことを徹底的にチェックすれば良いと思います。


 ・本当に神を求めているのか

 ・本当に自分を変えようと思っているのか

 ・世の中を変えたいと思っているのか

 ・全体のために明想しているのか

 ・全体のために実践しているのか


必要なのは、子供のような純粋な気持ちで神を強く求めるだけ。そこに知識や技術は必要ありません。この二つはかえって邪魔になります。知識を頼りにしている知識人は真理の追究に対して「稚拙」と言って馬鹿にします。技術に執着している人も同様です。ただ素直さだけが必要です。上江洲先生は、単純に「神キチガイになればいい」と言われました。私の場合は毎日、心を込めて「キリストよ、地上に戻られたまえ」と必死のパッチでお願いしています。


 

2−4 霊的呼吸法と物的呼吸法


呼吸法について言えば、物的呼吸と霊的呼吸の違いが大変面白かったです。イメージで言うと、物的呼吸は外からのもので、外から吸って、外に出します。これが普通です。ヨガ教室でもこれをやっていました。一方、霊的呼吸は内からのもので、内から吸って、外に出します。魂が中心核の原始細胞から生命エネルギーを直接吸収するんですね。内からプラナを吸収するんです。そのまま外に向かって放射します。その際、肉体・感情体・精神体全てを癒すんですね。そして、肉体から外に向かっても癒しのエネルギーが放射されます。


つまり、中心核から360度、生命エネルギーを吸収しながら同時に放射します。その状態が実感できるんですね。最初の頃は非常に弱いエネルギーですが、少しずつ強くなります。霊的理解が深まって、生命エネルギーが更に熟成して、より精妙により強力に放射できるようになれば、正に地球全体を癒すことが可能だと、そうはっきり思えるようになります。先生方や大使方はそのレベルまで到達されているのだと思います。


「無限大の愛の原子力発電所が我が内に実在している」ということです。放射能を一切出さない純粋無垢の愛のエネルギーです。無限大のエネルギーが眠っているんですから、目覚めて100%起動したら世の中にどんな効果を与えるのか、今から非常に楽しみです。


この二つの呼吸法を常に同時に行うのが心身ともにベストだと思います。物的呼吸を止めては死んでしまいますが、たとえ物的呼吸を一時的に止めても、この霊的呼吸は止まらないんです。肉体的な呼吸を止めても中心からのエネルギー吸収と放射はストップしないんです。全く外の影響を受けないんですね。これには本当にビックリしました。正に無限供給。もちろん、心を乱して神と波長が合わなくなれば瞬時に供給はストップします。


本当の呼吸法は霊的呼吸なのに30数年間、これができなかったから苦しかったんだと今では納得しています。魂が「神の息吹」を知らない状態、内からも外からもエネルギー供給されない状態、それはそれは苦しいし、虚しいと思います。たくさんの方々がこの霊的呼吸法を知れば、素晴らしい世の中になると想像します。


 

2−5 全体のための祈り


伝導明想も全体のための祈りですが・・・


知花先生が毎日神に祈っていたという言葉


 「貴神の言葉は、我が言葉と成らせ給え」

 「貴神の思いは、我が思いと成らせ給え」

 「貴神の行動は、我が行動と成らせ給え」


上江洲先生の「慈悲心」


 慈悲の慈の心とは

 万象万物あってあるもの 全ての全てが

 常に喜び安らぎ幸せで ありますようにと

 そう祈れる心 それを慈悲の慈の心


 慈悲の悲の心とは

 万象万物あってあるもの 全ての全てから

 悩み苦しみ悲しみ(不安恐怖)が

 永遠に取り除かれますようにと

 そう祈れる心 それを慈悲の悲の心


 慈悲の心 慈悲心


合気道の開祖、植芝盛平翁も「神の御心を我が心とすれば良い」といって晩年は神に祈ってばかりいたようです。「神の御心、我が心」と宣言して、神の波長と自分の波長を合わせることによって、自分自身が神となり神の媒体となり本物の奉仕ができるのだと思います。だから、常に神との一体感を保つことが重要です。逆に言えば、全体のためにという動機があって初めて、神と波長が合うということになります。


神の実感が少しでもあれば、この祈りの明想の絶対的な効果がわかるようになります。何故ならば、神性エネルギーが中心から放射されているのが実感できるからです。そして、これまでのことから、「我神なり」という一連の想念行為を習慣化して生命エネルギーの実感を得れば「神でなかったら、一体全体何だというんだ」という心境になります。この道は険しいですが、この生命エネルギーの実感を一回でも得たら、素晴らしすぎてもうこの学びは止められなくなるはずです。


 

2−6 明想の重要性


ここで、ヨガナンダの講話集から明想(瞑想)の重要性についての記述がありますのでご紹介いたします。


瞑想は行為の最高の形式 

  —パラマハンサ・ヨガナンダ講話集より抜粋


このように、行動も信仰心も理性も、神を求めるときの重要な要素ですが、そのどれよりも偉大なのが瞑想です。真の瞑想とは、注意力と意識を完全に神に集中する、霊的行為です。瞑想は、人間のいろいろな行為の中の最高の行為であり、神を見つけるための最もバランスのとれた方法です。


もしあなたが、朝起きてから夜寝るまでただ働くだけだったら、機械のような人間になり、仕事に追われているうちに神を見失ってしまうでしょう。また、もし思索だけによって神を求めようとすれば、果てしない理論の迷路の中で神を見失ってしまうでしょう。さらにまた、もし信仰心だけに頼ろうとすれば、その進歩は、とかく単なる心情的なものになってしまうでしょう。


瞑想は、それらの方法を結び付けてバランスを取ります。働くのも、食べるのも、歩くのも、泣くのも、笑うのも、瞑想するのも、ただ神のためにしなさい。これが最善の生き方です。こうして神を愛し、神に仕え、神と交わりながら生きるとき、あなたは真の幸福を感じるでしょう。


肉体的欲望や弱さに自分の考えや行動を支配されている間は、神を見つけることはできません。常に自分のからだの主人でありなさい。あなたは、教会や寺院で礼拝するだけでもある程度は信仰心の高揚や霊的な啓蒙を感じるかもしれませんが、それだけでは不十分です。ほんとうに神を知ろうと思ったら、瞑想という霊的行為が必要です。


あなたがたは、二時間も瞑想して座っていたらさぞかし退屈するだろう、と思うかもしれませんが、そんなことは決してありません。瞑想中に来てくださる神ほど私を酔わせてくれるものはありません。この魂の美酒を飲むとき、大空いっぱいの幸福が私の心をときめかせます。


この聖なる喜びはだれの中にもあるものですが、ちょうど太陽の光が木炭とダイヤモンドを平等に照らしてもダイヤモンドしかその光を反射しないように、神を知り、それを反映するのは、ダイヤモンドのような澄んだ心だけです。


このように、神を知る秘密の鍵は、心を澄ますための霊的行為である瞑想の中にあります。私が咎めたいのは、あなたがたのしている事ではなく、していないことです。あなたがたは、神のために割く時間などない、と思っているかもしれませんが、もし神が、忙しくてあなたがたの面倒を見る時間はない、と言われたらどうなると思いますか?


あなたの心を、感覚や習慣の妄想から取り戻しなさい。いつまでもだまされていてはなりません。私は、この世のどんなものよりもすばらしい国のあることをあなたがたに知ってもらいたいのです。


昼も夜もあなたを喜びに酔わせ、感覚的誘惑には見向きもしなくなるほどの幸福があることを知ってもらいたいのです。ですから、そのために体と心を訓練し、感覚を制御することを学びなさい。


そして神を見つけなさい。私はよく、この肉体は電話の交換機で、五官はその端末の電話機のようなものだと言います。私は、それらを通してこの世界と接触していますが、この世界から離れたいときは、五官電話のスイッチを切って神の至福の中に引っ越します。


天の父は、子供であるあなたがたがこれ以上苦しむのを望んではおられません。あなたは今、感覚の惑わしによる迷妄の中に住んでいますが、今こそその迷妄を克服して、神こそが人生にとって真に必要不可欠なものであることを認識すべきです。


あなたを束縛している誤った先入観や、日常の慣性的習慣や悪習を打ち破りなさい。私は、人を咎めようとは思いませんが、ただ神に対する無関心と不信仰だけは別です。瞑想の技法を用いれば、神は、知ることができるのです。


ひとたび神を知れば、神はあなたの中で英知となって働き、至福となってときめき、あなたは今までになかったほど生き生きとし、成功するでしょう。私も、かつてはあなたがたと同様、真理と幸福を地上に求めてさまよいました。


しかし、そこで喜びを約束してくれたものは、どれも結局、失望をもたらしただけでした。そこで私は、それを神に求めることにしたのです。あなたがたも、自分の内なる神性を発見して、自分で神の国をかち取りなさい。


 

2−7 物的満足感と霊的満足感


以下は知花先生の講話です。厳しいときや苦しいときに、何回も何回も読んだ部分です。この霊的満足感があって初めて、変性変容の厳しさや苦しさに耐えることができました。


知花先生の講話より抜粋


光を拒んで闇だけを選んでいる者は、この世を去っても光を見ることはないのです。「なんだこの世はまっ暗闇だ」というでしょう。あなた方が物質主義になって、物だけを愛して、物質という見える物だけを愛して、霊や生命を完全に無視して、私は物質主義者だ、物主義だという人と、霊的なものを受け入れて信じようとする者とは、この世を去ったあとの差は天と地の開きが出来ます。


物質主義者はまっ黒い一寸先も見えない世界を体験します。「なんだこの暗闇は」と。誰がその暗闇を創っているのでしょうか。その霊を否定すると、闇しか愛さなかった、物質主義は光主義ではなく、闇主義です。闇主義であるということは、闇を愛したのですから、闇に住まねばならないのです。これを普通例えて闇地獄というのです。霊は光ですから、霊光ですから、霊的なものを受け入れている人は、光を受け入れようとする人ですから、そうするとその人は闇に住まなくて、光に住みます。


「私を受け入れる者はつまずかない」、即ち霊的なものを受け入れている者はつまずかないということは、光の世界ではつまずきません。つまずくのは闇でつまずくのです。あなた方で物質が全てだという人がいたら、その人の最後は、この世を去ったあとのみじめさは身震いするようなものなのです。それを体験せねばならないのです。それは誰の心でもなく、自分の心の状態によってです。


欲望は満たされることなく、際限がありません。だから「富める者は災いである」と。この世で富んでいる者は災いであると。物質主義で物質さえあれば良いとする人の最後のみじめさは、恐ろしいものです。だからあなた方は霊だ、神だ、生命だということを学んでいただけ得をするのです。それを、生命を求め、霊を求め、神を求めている者は、闇ではなく、光を求めている者です。光に向かって走っています。


物質に向って走っている者は、闇に向かって走っています。物、物、物質、物質と追い求めて駆け足をして、満員電車に押しつぶされて、物、物に押しつぶされています。満員電車は物に押しつぶされている状態の象徴なのです。すし詰め状態の満員電車は物を求めて、闇を求めている人の姿なのです。物、物ですから、物にゆとりの出るはずがありません。


物への欲望とは限りがありません。なぜかといいますと、満たされるものではないからです。いくらあっても満たされるものではないのです。それは本物ではないからです。霊的なものは満たされますが、物質的なものはこれで満足ですということはなく、常に満たされない思いとなります。


大霊に満たされると満足感でいることが出来ます。物はいくらあっても満足しないのはなぜかというと、物は実在しないからです。影だからです。あなた方は影を食べても満足しないのと一緒です。本物を食べると満腹するけれども、偽物を食べても満腹しません。食べるまねをしても満腹しないのと一緒なのです。


だから皆様方は霊的に満たされた時、満腹感も満足感も得るのであって、物質的物をいくら持っても足りないのです。不足なのです。そのようなものを追いまくっていても、それをたとえ得た所であの世へ持ち帰った者は一人もいないのです。お返ししなければならないのです。あの世にこの世の財産を持ち帰れないわけです。


 

2−8 神我一体の境地


合気道の開祖、植芝盛平翁が神我一体の境地のことを次のように語っています。これも感動しました。日頃から、常に神に祈り、合気道を通して全体のための奉仕活動を行っていたからこそ、結果としてこのような体験が可能であったと思われます。


『武産合気』より抜粋


植芝翁の神我一体観の体験


植芝翁が、神との一体観を体験された事を・・・

たしか大正十四年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味もわかりこの宇宙を創造された神の心が、はっきり理解できるようになった。その瞬間私は、「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。


その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や財宝は勿論強くなろうという執着も一切なくなった。武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである、と私は悟った。

・・・と申されている。