公開:2020/10/10
真理の追究・自己追究
3. 変性変容の法則
これまで申し上げてきた「学びのプロセス」は、実際の体験に基づいてまとめたものです。今振り返ると、この地上界は「体験型・実験型の学びの場」であるとつくづく思います。まわりには少数ですが、立派な魂の持ち主もいれば、そうでない者もいます。教師もいれば反面教師もいて色々な勉強ができます。今ではたくさんの偽物を見てきたからこそ、数少ない本物に出会うことができたのだと強く実感しています。幽界ではそうはいかないのだと想像します。
先生方は「真理に関して、自分が体験して学んだこと以外は語ってはいけません。自分の言葉で語れるようになりなさい」と言っています。オーム返しの言葉には何の意味もないですし、力もありません。知識だけではハートからの言葉は出てきません。体験して実感してこそ、心の奥底から確信を込めた言葉が出てきます。そして感動を与えられるものだと思います。
体験という話になりましたので、ここで少し「霊的体験」について触れたいと思います。霊的体験というと私のイメージでは、そのほとんどが現象的で一番大事な「霊的実感」とは程遠いものであると捉えています。霊的体験をしたということで、それを前面に出して吹聴する人をたくさん見てきました。その反動からか、自分はあくまでも霊的実感を大切にしようと思いながら学びを進めてきました。実感とは神の実感、生命エネルギーの実感です。
霊的体験とは一回こっきりの現象。霊的実感とは常に今ハートで実感しているエネルギーの感覚。従って、霊的体験はすぐに過去になってしまいます。霊的実感は今、今実感しているものですから常に現在です。前者は過去、後者は現在。全く違うものであると捉えています。「過去や未来は実在にあらず。現在のみの実在である」という大村先生の言葉は非常に簡潔でわかりやすい言葉です。
たくさん霊的体験をしたからと言っても、今霊的実感がなければ虚しいもの寂しいものだと思います。逆に、たとえ霊的体験を一回もしたことがなくても、今霊的実感があれば喜び幸せ一杯です。だから霊的体験にこだわる必要はないと考えます。
但し、霊的体験というのは私の知る限りにおいてはやはり重要なもので、特に本人に自覚を促す、気づかせるためのものが多かったように思います。先生方や守護霊、指導霊を通して必要なときに見せられたということが多いです。又、真理の追究に対してやる気を見せれば見せるほどに、色々な体験をさせていただいたように思います。そのことについて少々お話いたします。
3−1 霊的体験
1)無限意識状態
初めての体験です。あるときに、夢で見せられたのは無限意識状態でした。自分が宙に浮いていて周りはきれいな青空、何で浮いているのかわかりません。浮いているから落ちないように必死に手足をジタバタさせているんですが、自分の手足はないんです。後に分かったことですが、全体が自分だったようです。青空がすごくきれいでした。
上を見ると黄金の光が輝いているんです。「ああ、あそこに行けばいいんだな」と思ったんですが、ふと下を見てしまったんです。そこは地上が見えるんです。やはりきれいに光り輝いている地上界なんです。余りにもきれいなもんですからずーっと見てしまったんですね。そうしたら「汝、汝意識しているところにおるのである」の通り、パッと地上に降りてしまいました。そうしたら、さっきまでは光り輝く光画像の地上界だったのに、降りたら、白黒モノクロになってしまったんです。「あーっ、しまった。上に行けばよかったのに」と思ったとたん、目が覚めました。目が覚めて「あーこんな世界があるのか」と思いました。
後日、知花先生が講話中に愉快そうに笑いながら「こんなこんな、しなくていいんですよ」と手を羽根のように羽ばたかせておっしゃいました。「先生が見せてくれたのか。こんなことができるのか」とビックリしました。
2)背中で導く先生
会社で他の社員と少々言い争いをしました。「なんて偉そうなやつなんだ」という意識を持ったまま寝てしまったんです。夢の中で知花先生が出てきて、背中をこちらに向けて雑巾で机を磨いているんです。良く見るとその机は私の家の古い机だったんです。「あー、自分の心を磨きなさい」とおっしゃっているんだと夢の中で瞬間的に理解できました。反省です。
3)明想指導
これも夢です。毎日無言の明想指導を受けるんです。どなたからなのか今でもわかりません。眉間に意識を集中して「我神なり」。言葉はないのに「眉間に集中せよ」と言われている気がしました。言われた通りにすると、眉間に強烈なエネルギーを感じました。一週間位続きました。
4)化け物の出現
毎日夢の中にたくさんの化け物が現れて、360度囲まれてゆっくりゆっくり自分に向かって近づいて来るんです。もう怖くて怖くてどうしようかと。最後の手段で「我!神なりー!」すると叫んだ瞬間、化け物がパッと消えて目が覚めるんですね。これも一週間位続きました。「我神なり」の言葉の強さ、偉大さがよくよくわかりました。「我神なり」は偉大です。「我神なり」は基本中の基本です。
5)幽界人の憑依現象
3回か4回位ありました。十分な明想をしないで、寝床に入ると自分の中に何かがパッと入って来るんです。非常にイヤーな感じで全身が身動きできない金縛り状態になります。気持ちが悪いのと動けないのと逃れたいのでいつもの「我神なり」を言おうとするんですが口も動かせない。心で強く「我神なり!我神なり!我神なり!」するとやっと口が動かせるようになり「我神なり!」とたんに出て行ってくれました。
「我神なり」という言葉は、基本中の基本であると同時に、最後の切り札でもあることがわかります。使えば使うほど切れ味は鋭くなり、効果は抜群となります。それは絶対真実であり、絶対事実であるからだと思います。
6)神の匂い
これは全部で6回ありました。精神的に厳しい状況が生まれたとき、内側から非常に濃くて甘いエネルギーが湧きだして来て、精神と感情を安心・安定化させてくれるんです。チョコレートを強い火で焼いたような香ばしい匂いです。「神の匂い」と呼んでいますが、これは本当に素晴らしい実感なので、これが常にあればどんな問題も問題と感じないと思える程です。だから「ずっとあれば良いのになあ」と思いますが、一週間から10日ほどでスーッと消えて行ってしまいます。「自分で常に出せるようになれ!」と言われている気がします。
これらの体験は全て自分にしかわからない現象で、まわりの方には理解のできないことだと思います。他にも色々と助けてもらったり、「調子に乗るな」と警告されたり、さまざまなことがありましたが、その一つ一つが神の実在感を高めてくれるものでした。そして常に守護霊や指導霊に見守られていること、重要な学びを受けていることを知りました。こういった霊的体験が真理の追究の意欲を増してくれたと思います。
この霊的体験は学びの初期に起こったもので、どんどんエネルギーが高まると現象的なものは少しずつ減ってきました。もう現象的な霊的体験は卒業ということなのだと思います。
3−2 変性変容とはエネルギーの高揚と浄化作用
変性変容の法則についてお話ししますが、これは正に体験しないと絶対に理解できないものです。どういうことが起こるのか。自分の体験を元に申し上げたいと思います。
学びの初期の段階からエネルギーの実感とは別に、精神や肉体に色々な変化が起こりました。正確に言えば、エネルギーが高まった結果、心身に変化が起こったということです。「我神なり」と意識を変えて「変性」すれば、精神や肉体も自動的に「神の体」に「変容」するのが「変性変容の法則」だと思います。
言い換えれば、「変性変容とは意識を神に向けることによって、媒体である心身を神が使えるものに改善していくプロセスである」とも言えます。神が自由自在に使えるものにするためには、神の高バイブレーションに耐え得るものでないと使い物になりません。また心身に一点の汚れがあってもならないので心身の浄化も同時に行う必要があります。
従って、少しずつエネルギーを高めて慣らしながら、少しずつ汚れを取っていく作業が必要になります。このプロセスは少しずつでも厳しいですから、いっぺんに高めると精神はおかしくなり、肉体は破壊されると思います。
人間として生きているというのはエネルギーの低い状態ですから、どの程度自分が汚れているのかは全くわかりません。エネルギーが高まることによって初めて汚れに気づくようになります。闇人間は自分が闇だとは思っていません。内なる光を希望し、内なる光を求めたとき、内から光が現れてようやく自分の中の闇を識別できるようになります。何故ならば識別力という「力」、神性エネルギーという「力」が増すからです。
神を知らない人間は、神という正義を知らないために、やること成すこと全て罪作りをしていると言っても過言ではないと思います。言葉で罪を創り、行動で罪を創り、想念で罪を創ります。いわゆる「どんなに良い人」であっても神を実感していないという事実は「偽善者であり、罪人である」ということになります。一般の方はここがわかりにくいのではないかと推測します。私も実感がないときは全くわかりませんでした。
「人間が悪魔なんです」と知花先生が言われた理由はそこにあります。神を知らないために、肉体だけでなく感情体や精神体にまで細胞レベルで汚れが付いているんですね。つまり心身ともに汚れがあるんです。この汚れが闇が「全て神にあらざるもの」として神のバイブレーションによって「根こそぎ、浄化される」のです。
「光が現れれば、闇は消える」という真理の言葉はそういう意味です。もっと細かく言えば「光が現れると、闇は光のバイブレーションによって揺さぶられ、大混乱を起こして表面化し、本人の自覚・悔い改めによって浄化される」ということです。
浄化と言っても汚れを敵対視して排除するというのではなく、元々の愛の状態に戻すという意味です。神のバイブレーションによって汚れを表面に浮かせて、本人の意識に気づかせて、悔い改めを促すということです。この気づきによって本人は「非常に申し訳なかった」という気持ちになり悔いて改めるわけです。
神を知らなかったから平然とやってしまったけれども、今度は神の中心核から正しく価値判断できるようになるので、「これは大変なことをしてしまった」と初めて理解し、悔いて改めようとしたときに、消えるんです。すぐには消えない場合もありますが、それは今後の明想と真理の実践の中で少しずつ消えていきます。
知花先生が「あくびは肉体の浄化の結果、涙は心の浄化の結果ですよ」と言われたことがありますが、この悔い改めの涙は何回も何回も流しました。この涙は心の汚れ落としでもあり、新しい発見でもあり、生まれ変わったように感じます。非常に感動的で気持ちの良いものでもあります。流した後はすっきりとして、心身ともに軽くなります。汚れを取ることで、重い荷物を降ろしたのだと思います。そして、この悔い改めを通して、心身の浄化というのは神が行うもので、自我人間では絶対に出来ないことを知りました。
3−3 実際の変容体験
自分自身の体験ということになりますと、1995年から学び始めて10年間はそれほど厳しい変容はなかったのですが、2005年の後半位から本格的な変容が始まりました。私の場合は精神的な部分が強く現れて「自分はどうにかしてしまったんじゃないか」と思うくらい苦しい状態になりました。言葉で説明するのは難しいのですが、「今までの自分の生き方全てが間違いであったのではないのか」というような非常に深刻な心の苦しさです。
ハートに闇のフィルターがかかったようになり、いつも息苦しく胸が悪い気持ちです。感情は不安定になり、異常なほどに敏感となり、普通の日常生活ができなくなりました。「これは、自分は過去生においてとんでもないことをしたから、そのカルマが今現れたんだ」と真剣に悩みました。そしてその苦しさから逃れるためにあらゆることをしましたが、全て無駄でした。
どうしたら良いのかわからなくなり、「そうだやっぱり明想しかない」と思い直し神に祈りました。「神様、苦しいです。これは一体どういうことなんですか?」一生懸命神を呼び、「我神なり」と一心不乱に唱えました。もちろん伝導明想もしました。すると神の光エネルギーが内から現れてやはり癒されるんですね。「あー、楽になった」とほっとしてもすぐにまた苦しくなります。「これは思い続けるしかないな」と繰り返し繰り返し明想しました。
それでも、余りにも苦しみがなくならないので上江洲先生に相談しました。「私は間違ってしまったんでしょうか?真理の道を歩んでいるのにこんなにも苦しくなるなんておかしいですよね」すると先生は「真我覚醒です。間違ってはいません。正しいです。浄化作用です。これは誰もが通る道です。私も体験者です」「闇の原子が光の原子に変わるときにつらい思いをするんです」とおっしゃいました。
その「真我覚醒」という言葉を聞いて嬉しかったんですが、余りにも苦しいので「この道は苦しい道ですね」と申し上げたら、うなずきながら「厳しくて苦しいです」と言われました。「厳しくて苦しい?」先生もそうなのか。色々と調べていくと、先生方だけでなくイエスキリストやお釈迦様も同じだったんだとようやくわかり、納得して感慨深くなりました。
同じ時期に占い師のリブラさんのところに行き質問しましたら、「次の段階に移行しました」「シナリオ通りに来てますよ」「安心してください」ということでした。「そうか、やっぱりこの体験は誰もが通る道なんだ」「自分の計画通りに来ているんだ」と知り安心しましたが、とにかく厳しくて苦しい。相当のつらさです。
苦しいから常に「我神なり」しかありません。「神を強く思わせるためにこの苦しさがあるのではないのか」とも思ってしまいます。とにかく「苦しき者よ幸いなり。その者は神の国を見るであろう」「我が忍耐力という力は無限なり」という言葉を言い聞かせて過ごしました。
この本格的な変性変容の段階に入るといわゆる「外からの誘惑」を受けることはほぼなくなります。誘惑を受ける余裕そのものがなくなるからです。外にかまっている余裕はない。肉体的にはいつもエネルギー疲れのような状態で以前のようには動けない。精神的には常に厳しくて苦しい状態が続く。結果的に厳しくて苦しいからこそ、そのおかげでシルバーバーチの言う「安全な港(光の王国)」に送り届けてくれることになります。
そうして強く感じたのはこれは正に「さなぎの段階」だと。今までは青虫で自由に動けたけれども、今はさなぎになって自由に動けない。従って、蝶になるのを待って、じっとしているしかありません。前述の『世紀末を救う意識改革』という知花先生の著書の通り、正に自分の中で意識改革と肉体改造が起こるのです。「真我と自我の闘い」です。
一番つらかったのは、このつらさをまわりの誰もがわかってくれないことでした。見た目では何も前と変わりませんから、外からはわかりません。あくまでも内側での出来事です。見えないんですね。その体験から、「先生方はこんな状態で色々と活動されているのか」と先生方に対する尊敬の念もいっそう強くなりました。
3−4 光エネルギーの実感
何とか耐えながら毎日を過ごして行く中で、夜間の車の運転中にやけに後続のヘッドライトが眩しく感じるようになりました。まるでケンカを売られているような感じです。対向車のヘッドライトも同様でした。光に敏感になっていきました。
あるときに前の車のテールランプの赤色がやけに光り輝いてきれいに見えるようになりました。「あれー、すごいな」余りにもきれいなんで、テールランプ見たさに高速道路を何回も何回も往復したことがあります。その光の見え方が次第に赤色からオレンジや黄色・青と他の色も光り輝くようになってくるんです。そして、最終的には全ての色が光り輝いて、夜景が黄金色と白光で一杯です。もちろん七色も見えますが、特に黄金色が何とも言えないほど美しい。
面白いことに輝いて見えるようになる順序が七色の「波長の長い順」なんですね。赤色から始まってオレンジ・黄色・緑・青と最後は紫です。「これは正に科学だ」と感動しました。眉間のチャクラがある段階に達したからそのように見えるようになったと思われます。上江洲先生に確認すると「光り輝いて見えるんですよね」と言われました。
ビルの窓からの照明を見るときも、蛍光灯の全体が見えながら光源の位置もくっきりと見えるようになりました。「いやー、これはすごいことになった」と。そして光を見ると自分の内側からもやはり光エネルギーがどんどん出て来るんですね。甘酸っぱいものがどんどん出て来るんです。このエネルギーを以前は「生命エネルギー」と呼んでいましたが、この時点から正に「光エネルギー」という表現を使うようになりました。
夜の繁華街に行くともう色々な光が輝いているのでこう思いました。「光が眩しくて闇が見えない」「正にこの世は色街だ」と。光っている範囲が以前の数倍位の大きさですから光と光が重なって暗い部分が見えません。信号機の三色の光も以前よりも360度大きく広がって、当初は車の運転が恐いくらいでした。外側の光を見ると自分の内側から誘い水として甘酸っぱい光が湧いて来るのでしばらくは夜の散歩が楽しくて嬉しくて日常的になりました。特にマンションの光が何とも言えない観光ポイントでした。
そして不思議なことに、闇は今までよりも暗く見えるんですね。真っ暗に見えます。明暗が両極端にはっきり見えるので、初めの頃は繁華街もそうですが、暗がりを歩くのが難しく感じたことがあります。今では慣れて大丈夫ですが、エネルギーが高まるとこの世の見え方もどんどん変わるので面白いなあと思います。
内側のエネルギーの実感は今までよりも精妙になり、ハートセンターが光っているのが実感としてわかるようになりました。更にエネルギーが高まると全身の細胞が火で焼かれたように感じることもあります。「火の洗霊とはこういうことなのか」と実際に体験すると深く納得できます。
これが2009年の1月頃です。3年強の期間、何とか耐え続けてここまで来れました。「我が忍耐力、無限なり」と言い続けて来た結果、素晴らしい光の実感が自分のものになったのです。それ以降、この外側と内側の光の実感は自分の宝となり、真理の道の正しさ・重要さが更に信念として強く確立できました。また上江洲先生の「意志と勇気と忍耐と努力」の意味がいっそう深みを持って理解できるようになりました。
「光の国の住者となれ。光の国の住人となれ」という真理の言葉を思い起こすと、「やっと自分は光の入り口に来たんだ」という実感があります。そして、この時点から2020年の今現在まで、光の実感は更に強くなってきており、今後も更なる霊的覚醒・霊的成長が永遠に続くのだと思うと、嬉しくて楽しくて、ただただ神様に感謝感謝です。ここまでやって来て本当に良かったと思います。もちろん、変性変容の厳しさ苦しさは相変わらず続いていますし、まだまだ旅の途中ですから、今後もより一層、精進しなければならないと思っています。
3−5 まとめ
学び始めてから、この光エネルギーを実感するまで、理解を深めたことをまとめると以下のようになります。
1.浄化の順番は小さなものから大きなものへ
初めの頃は表面上の小さな闇の浄化ですが、だんだんとしつこい闇に移行します。エネルギーが高まれば高まった分だけ、根深い闇が浮いてきます。これらの闇には自分で気づいていて、何とかしようと思っているものもありますが、隠しているものもあります。あるいは、知らないふりをしているものもあります。全く気づいていない闇もたくさんあります。自分がそうだったから良く良くわかりますが、自我というのは大変卑怯で、いつでも自分を正当化しようとします。いわゆる自我の本体は最後の最後まで奥に隠れています。最終的には一点の闇もあってはならなくなるようです。
2.心の成長は必須
エネルギーが高まれば高まった分だけ「力」そのものが強くなるので、例えば、怒りのエネルギーも異常に強くなります。感情がコントロール出来なくなると、自分自身が受ける破壊的エネルギーは相当なものになります。これも何回も体験してます。以前よりもダメージが大きいのです。従って、心の成長なくして闇雲にエネルギーだけが高くなるのは絶対禁物だと思います。
3.原因と結果の法則(因果の法則)
「原因が正しければ、結果も正しくなる。間違っていれば、間違った結果が現れる。求めれば、与えられる。与えれば、与えられる」「汝、汝意識したところにおるのである」「汝の観るもの受け継がん」大村先生に口酸っぱく言われたのは、「無限に留まれ」でした。「原因が無限であれば、結果も無限という素晴らしいものになる」「常に無限意識に留まれ」と言われました。今回のことから、「我神なりと変性すれば、心身の変容が起きる」これも原因と結果の法則だと思います。逆に「我神なり」と思わなければ、結果は何も起こりません。
4.艱難辛苦は魂の成長に不可欠
「シルバーバーチの霊訓」にもありますが、この世で体験する艱難辛苦は魂の霊的成長に不可欠だということが、今回のことで嫌というほどわかりました。苦悩がないと何かを強く求めることがないまま人生が終わってしまいます。真理を知らないで、神を知らないで人生が終わってもかまわないとは思いますが、今の私から見れば「それは非常にもったいないこと」と思います。艱難辛苦の先に素晴らしい永遠の光エネルギーを手にすることができるからです。
5.真我覚醒は「産みの苦しみ」を伴うもの
キリスト神我の誕生は「産みの苦しみ」を伴います。一つ目は闇の浄化による苦しみです。二つ目は高エネルギー、高バイブレーションに耐え得る心身を創り上げる過程での厳しさです。双方ともに非常に厳しい体験ですが、それを乗り越えると素晴らしい世界が開けます。
6.真理は元々在るものであって、何かになろうではない
「どんなに素晴らしい思想であっても、それは人間が創り出したもので真理ではない」「真理は元々あるもので創り出すものではない」「創り出す力そのものが真理だからである」と真理の言葉にあるように、人間は内在の神に、ただ素直に戻れば良いだけです。ただひたすらに神を呼べば良いだけです。
7.神様は自分を自由自在に表現してくれる人間を探している
神様はこの世を素晴らしい世界にするために、いつも媒体を探しています。本人が「神の媒体になります」と強い意志と覚悟でもって大宣言すると、内側からエネルギーをどんどん高めてくれます。但し、この覚悟がないと「この者で大丈夫か?」とほどほどのエネルギーに留めます。覚悟のない者に対して闇雲にエネルギーを高めることはありません。それをやると負担となり本人は返って苦しくなります。自由意志が完全に尊重されているので、「求めよ さらば与えられん」の法則に従ってエネルギーは与えられます。
3−6 試練と苦闘、誘惑と失敗
以下は「ヒマラヤ聖者の生活探究」からの抜粋です。イエスキリストの自己完成の一節です。ここも何回も何回も読みました。ときには涙も流しました。
【第三巻 第十八章 イエスの自己完成への苦闘】
「たとえば霊的に大きな悟境に達していて成功すべき筈の人が失敗する。そうして人類意識が更にまた人間をがんじがらめにしてしまう。それが世代を重ねてゆくうちにますます強くなる。従って人間の性質が弱く脆くなってゆくのに何の不思議があろう。
そうして銘々が次々とその後を追って同じ永遠に廻る踏み車へと向かって行く。盲者たちがゾロゾロと久遠の忘却、大いなる渦巻の中へとつながってゆく。この渦巻の中では肉体が分解腐朽するだけでなく、魂までが人間的才覚と誤謬という決して容赦することなき碾臼(ひきうす)のあいだで砕かれるのである。
善悪という人間心を次々と積み重ねてゆき、やがてそれが厚い外殻となり、様々の経験を重ねるうちに層一層と厚くなって、遂にこれを打ち破って自分の真我を解放するには、超人的な力と大鉄槌とを必要とするようになる。
しかし、そのような迂遠な方法よりも、この地上一代で解脱する方法があり、その方が遙かにたやすいことを、わたしやその他多くの聖者たちのように、あなたたちも悟得して欲しいと思う。今述べた殻を打ち破って、真我を見性するまでは、人はこの渦巻の中で砕かれ続けるであろう。自分自身を見事に解放して、地平の『より大いなる眺望』を一見するまでは、修行し続けることである。
この『より大いなる眺望』を一瞥(いちべつ)したとき、あなたたちの苦斗は一旦止み、心の視力(ヴィジョン)が明らかとなる。しかし肉体は尚、殻の中にこもっている。新しく生まれる雛(ひな)の頭は 殻から出ていても、なお 苦斗をつづけなければならないことを知るがよい。
生まれ出る雛が 自分の発育の源であった胚卵の格納されている卵殻に穴をあけ、すでに感じ取っていた新しい世界に成り出でる前に、この雛はまず古い殻、環境から完全に自由にならなければならないのである。
わたしが少年の頃、父と共に大工の仕事台で、神より生れたいわゆる人間には、人間として生れての短い生涯を生き、その短い生涯に人間の造った律法(おきて)・迷信・因襲という碾臼(ひきうす)に挽(ひ)かれ、かくてせいぜい七十年の生涯を苦労しつづけてから 天とやらに行き、当時の僧侶たちの餌食となっただまされ易い心の中以外には、理屈からいっても存在する筈のないところの、竪琴を弾き讃美歌を歌うという光栄ある報いとやらを受けることよりも、もっと高い生き方があるとわたしが悟ったことには、あなたたちは全く気がついていない。
この大きな内なる目覚め、悟りの後、只一人自分自身の中でみずからを友として独居と沈黙の中に長き幾昼夜を過ごしたことを、あなたたちは全く見落としている。
やがて自我を克服してわたしの悟り得た光が大いなる明光であり、これこそが創り出される神の子ら、言いかえれば、この世に来たるすべての神の子らの道を照らす光であることが解り、わたしのいたく愛する人々にもこの光を示そうと思ったのに、却ってわたしはこの人々の間で遙かに苦しい経験をしなければならなかったのである。
悟りによって まだ垣間見ただけではあるが、それでも迷信と不調和と不信の泥沼を超えて見ることのできた新しい生き方を取り上げる代わりに、いっそ今のままでいって大工にでも成り、僧侶達や伝統宗教のいう短い寿命とやらを送ろうかと思ったりもする、あのわたしにつきまとった大きな誘惑を、あなたたちは全く見落としている。
わたしが覚知した光を示してあげようと努力した人々から受けた苦しみは兎も角として、自分の親戚縁者からでも幾度となく浴びせかけられた不名誉な侮辱という肉体的苦痛を、あなたたちは完全に見落としている。
それに堪えるためには、わたし自身の意志以上の或る強い意志を要したこと、この意志がわたしを支えてこれらの試練を乗り超えさせてくれたことに気づかない。わたしにつきまとった試練と苦闘、誘惑と失敗とは、あなたたちにはほんの少ししか分からないのである。
光がそこに在ると見て知っているのに、まさに消えなんとして最後の一瞬(ひとまたた)きをしているのではないかと思われたり、時としてその最後の光も消え、影のみが取って代わっているのかと思われ、挙(こぶし)を握り歯を喰いしばったことが、どんなに度々あったことか。
しかしそのような時でさえ、わたしの裡には依然として変わることなく強く支配する或るものがあり、そのため、影の背後にも光が依然として輝いていたのである。わたしは前進し、影を捨て、一時小暗くなっただけに却って一層明るくさえなった光を見出したのである。
その影が結局は十字架となったときでさえ、わたしはその向こうに、いまだ恐れと疑いと迷信とに浸蝕されている俗世の人々の理解を超えた 勝利に輝く朝の目覚めを見ることができたのである。
神は聖なるものであり、神の像(すがた)に似て生まれた神の真(まこと)の子たる人間も亦、父のごとくに真の神性であること、且つ又、この神聖なるものこそが、すべての人が見て感じている真のキリスト(神我)であり、それは自分自身の内、そしてまた神の子らすべての者の中にあること、それは神の自由意志と自分自身の自由な想念と純粋な動機とによって、まず自分自身に対して証明ができるものであることを、前にも話した実際の体験と接触とによって知るためには、最後の滴(しずく)まで呑み乾そうと、わたしをして固く決意せしめて前進させたのは、実にこの悟りだったのである。
この真のキリスト(神我)は、この世に来たるすべての子を照らす光である。それはわれらの父なる神のキリストであり、且つその中で、わたしたちはすべての久遠の生命と光と愛と真の同胞(きょうだい)関係——即ち神と人との真の父子関係をもつのである。この真の悟り、即ち真理によってこれを見れば、人は王も、女王も、王冠も、法王も、僧侶も要らぬのである。
真の悟りを得た人が王であり、女王であり、僧なのであり、すべての人は神と偕(とも)にあるのである。あなたたちはこの真の悟りを拡げて、全宇宙のありとあらゆるものを包容し、神から与えられた創造力をもって、神の為し給うごとくに、それを囲み繞(めぐ)らすがよい」
3−7 艱難辛苦と魂の成長
以下は「シルバーバーチの霊訓」からの抜粋です。これを読むと自分の境遇がわかると同時に、先生方や大使方先駆者の大変なご苦労が理解できて、何とも言えない気持ちがします。
地上には、自分を変えようとせずに、世の中の方を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようとするのですが、全ての改革は、まず自分から始めなくてはいけません。自分が霊的資質を開発し、それを何かに役立てられるようになるまで、他の人を改める資格はありません。
地上人類の霊的新生という大変な事業に携わっていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生しなくてはなりません。真の実力を発揮しなくてはなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂に宿る神性を存分に発揮しなければなりません。
宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私たち霊はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは、神から与えられたかけがえのない霊的財産を存分に発揮することです。
その光、その気高さ、その威厳の中で生きることです。どんな名前の思想や教会、宗教よりも偉大です。神の財産は尽きることがありません。地上に生まれてくる全ての人が、その財産の一部を与えられているのです。
悲しむ人を慰め、迷う人を導き、悩む人を救うためには、苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなくてはなりません。自らの体験によって魂が感動した人でなければ、人を導く資格はありません。教える立場に立つ人は、学ぶ者としての体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人からもらうのではありません。
「艱難辛苦」辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で学ばねばなりません。それが奉仕する人の鉄則です。そうでなければ有難いのだが、と私たち霊も思います。しかし、まわりの人には分からない、あなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの喜びは、そうした辛い体験から得られるのです。なぜならその艱難辛苦が、全ての疑念と誘惑を蹴散らし、最後には祝福された魂として、安全な港に送り届けてくれるからです。
これも神の法則として定められた、一つのパターンです。霊的達成への道は楽には出来ていません。もし楽に出来ていれば、それは達成とは言えません。楽に得られるものなら、得るだけの価値はありません。
人に奉仕するには、それなりの準備が必要です。その準備を整えるには、魂に触れる体験を積み、霊性を開発し、サイキック能力を可能な限りスピリチュアルのレベルまで引き上げなければなりません。サイキック能力を持った人は大勢います。が、それをスピリチュアルのレベルまで高めた人は、あまりいません。